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ポケモンGO

 投稿者:彦坂hiromi  投稿日:2017年 8月16日(水)00時39分52秒
  13日日曜日、珍しく二人で散歩に。マンション前に出るとパシフィコ方向へ車がギッシリ!
土日でも見たことがない位の渋滞ぶりで、パシフィコの駐車場は満杯とのアナウンスに、皆赤レンガの方へ曲がろうとしている。??とクエスチョンマークのままランドマークまで歩き、ベンチの隙間をみつけて少し休んでから再び自宅方向へ戻ったのだが、ランドマーク周辺(勿論中も)、マークイズ、クイーンズ、もの凄い人人人・・・

夏休みだし、お盆だし、それにしても・・・ガードマンに聞いてみたが、パシフィコで恐竜展を
やってるからではと。ニュースでも出ていたのでそこでPCで調べてみたらな・なんとここら辺は9日からピカチュウに席捲されていたのだと!!
 今日15日が最終日ということで、用事がてらでてみるとこの大雨の中やはり沢山の人びと。
子連れ、ババ連れの家族もいるし、おとーさん一人でベビーカー押しつつ画面見てる人、中年の
ご夫婦、ともかくどこでも歩きながら、突っ立ったまま、見てるから私一人でも歩くのが難しい

去年(だった?)話題になった時はへえ~っ!とテレビを見てるだけだったが、間近で本物に
接して、その勢いというか流行りもんのすごさを感じました。
私なにしろまだガラケーだもんで・・・
 
 

私も見た

 投稿者:彦坂hiromi  投稿日:2017年 8月15日(火)00時19分0秒
  八時からの前は「アナザーヒストリー」で、オバマさんが広島に来るまでの経緯や、共に原稿を作ったスタッフの話、被爆者たちが、是非広島へ来てもらうためにはと、オバマ氏に謝罪を求めないと決めたこと、捕虜になっていたアメリカ兵12名も亡くなったことを知らせた人などのことをやっていましたね。

12名が被ばくしたことを、アメリカは全く知らせないようにしていたようですが、数日前には
アメリカでの原爆実験の実体が如何にアメリカ人には知られずに行われていたかという番組を
やっていました。そもそもラスベガスは、実験地で働く人々のための行楽地として作られたもののようです。風向きがラスベガス方向の時には実験を行わず、反対側の山を越えた町に流れるのはお構いなしだったようで、時にはうっすらと火山灰のように積もることもあったとか。

当然癌の発症率も高く、何も知らずに暮らしていた人びとを苦しめていたわけで・・・
ふと疑問になるのは、オバマ氏は或いはアメリカの政府はそのこと(自国にも被害が存在すること)を知らないのだろうか??ということです。
それでも、彼の行動のお陰でこれからの世界に希望を見出していけるのだろうと、思えてきて
いたはずだったのに・・・

私はシベリアのことは、北海道に来てからも全く何も知らずに過ごしてきました。アイヌ問題
については少し教わった記憶がありますが・・・でもやっぱり私達の頃は、憲法9条の大切さ
戦争はいけないこと、社会全体がそういう空気でしたよね。
「戦争を知らない子供たち」ではあるけれども、脚のない兵隊さんや様々な人びとも小さい頃に
見ているし、戦争のシッポの端っこは体感しているのだから。
平和になってほしい!平和に暮らしてほしい!!
 

今日のNHKスペシャル

 投稿者:MIYO  投稿日:2017年 8月14日(月)21時59分40秒
  八時から「知られざる地上戦」樺太・5000人の犠牲者 なぜ?終戦後も戦闘が 悲劇の7日間明らかに
を、見ました。
私の生まれは稚内です。母から子供の頃に聞かされた真岡の悲劇
母は、ソ連の人を「露すけ」 と 言いました。 祖父も樺太の木材業をしていたようで、そのころの写真が沢山アルバムにありました。
戦争は、一番弱いところに最後のしわ寄せが来ます。
沖縄も樺太も・・・
小学生の時に沖縄の糸満小学校の子と文通したのは、きっと、シベリアの抑留生活を体験した担任の先生が道筋を付けて下さったのだと思います。
その先生も腎臓病で36歳で亡くなりました。
中学の時に、夏休みに広島の事を調べたくて原爆病院へ手紙を書きました。返事をくれたおじさんと文通しました。
自分でも不思議でした。
今日、この番組を見ながら子供の頃に母が 本当に怒りながら「露すけ」と話したことがもしかして、北海道の子が沖縄や広島と関わった、そしてシベリアの抑留生活の中で、みんな死ぬときは「天皇陛下バンサイ」なんて言わなくて「お母さん」って呼んだこと、黒パンの大きい小さいでけんかしたこと、先生が話してくれたくれたこと。
戦争は絶対に繰り返してはいけないこと。
子どもや孫たちが平和で暮らしてほしいと 改めて 心から 思いました。

真岡の電話交換手の最後の電話を受けた方が、露すけ と 言葉を 言われたときに、北海道の人間にとっての どれだけの時間が過ぎても 消えない 想いを 深く思いました。
 

札幌行き

 投稿者:彦坂hiromi  投稿日:2017年 8月 8日(火)00時00分31秒
  先月末3泊で約7カ月ぶりの札幌へ。今回は純粋に孫達に会いに。台風5号が小笠原近辺で停滞し、どちらへ向くかわからない状態の中、「旅作」でとったために移動はできないので、運天で
出かける。
 分厚い雲を抜けると、窓の外は圧倒的な緑!あぁ、北海道だなと実感する。雨が降ったりやんだり、23度と聞いたのに湿度が高くて鬱陶しい気候ではあったが、翌日は晴れてくれた。
午後、子供たち2人で留守番をしている平岸へ行って1年ぶりの庭を見たり、主人は14歳になった上の子に自分の生い立ちを話したり。

下の子は庭に出た私につきあってくれて、野球をどこで続けるか(シニアグループに入るかどうか)とか、違うこともやってみたいようなとか、6年生にしてちゃんと将来を考え始めていることに感心したり。夕食の回転ずしで、サーモンの爆食いをする二人にあきれたり。

最後の日は二人がホテルの温泉付きランチというのを所望。ハンバーグやらお肉やらを食べて
主人と一緒に温泉に入り、サウナの体験もして楽しんだとのこと。
ようやくゆっくりと子供たちと過ごせて、主人も満足したもよう。頼もしさも少しあり、まだまだ子供でもあり、ともかく戦争だけは味わうことのないよう、祈るばかり。

札幌の街はやはり緑の匂いに満ちていて、こういう香りは他の街にはないように思うのだが。
 

東京札幌会ビール会のご案内

 投稿者:MIYO  投稿日:2017年 7月11日(火)16時32分14秒
  毎年恒例の暑気払いビール会のご案内です。申込締め切りが7月21日です。

日時:7月29日(土)正午~/受付11:30~

場所:恵比寿ガーデンプレイス 「ビアステーション」2階
   03-3442-9731

会費:会員以外4、500円 (札幌会会員4000円)

札幌会が2階貸し切りでの開催です。

東京札幌会事務局 03-3216-5090 担当佐藤さん(幹事の秦・南高 からとお伝えください)

あるいは、秦までご連絡ください。
 

上高地

 投稿者:彦坂hiromi  投稿日:2017年 6月25日(日)00時25分57秒
  先週15日から信州戸倉温泉に主人の姪達と出かけ、1泊ではつまらないと私達2人は更に
上高地へ。梅雨が始まってるのに、幸い素晴らしい天気に恵まれ、芽吹いて間もない木々の
間を散策。上手に鳴けるようになった鶯も部屋のすぐ外で縄張りを主張している。

ただ、足の弱くなった主人はあまり長く歩けなくて、私が上手く伝えられなかったために余計
歩くハメになり、ホテルの入り口までやっとの思いで帰ってきて、部屋に戻るのに車椅子を借 りたほど。
 以前(彼が網膜剥離の手術をする前だから、もう7年前になる)はどこへ行くのも車だった
から、今回のように新幹線の予約やら何処の駅から何に乗るとか、時間や乗り継ぎはとか、
調べるのはともかく行ってみなくてはわからないというのは、随分と疲れるものです。

帰りの列車に、松本から横浜まで直通で行けるのがあるとわかり、楽そうだと乗ることにした
のですが、線路のメンテが悪いのか車両が旧いせいなのか、中央線に入るまで揺れること々々
八王子を過ぎてからも結構ゆれるのです。これで3時間乗るのはもうキツイ・・・

和室に布団というのも起るのがツライしね。明日(もう今日だ)長男の大学OBによるオケ
の年に一度のコンサートに行くというのに、丁度今「今夜も生でさだまさし」なので見てし
まいそう・・・網走からだし。また疲れることになるのかな?
 

百聞は一見に如かず

 投稿者:17組 黒沢です  投稿日:2017年 6月22日(木)11時03分51秒
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東京16期会

 投稿者:MIYO  投稿日:2017年 6月21日(水)17時19分21秒
  うまく添付できるかな
6月10日?の同期会
美味しかったし、楽しかったよ
 

埼玉にいた山下氏へお礼

 投稿者:松岩 達  投稿日:2017年 6月16日(金)22時23分51秒
  故・田元氏の経過情報ありがとうございます。
6月1日に81歳の長女をくも膜下出血で亡くしてまだ落ち着かない毎日ですが、70代になる我々は健康に出来る限り留意して生きて行かないと、周囲に大きな寂しさを残したまま旅立つことになりますね。合掌
 

田元氏について

 投稿者:埼玉にいた山下  投稿日:2017年 6月10日(土)23時33分39秒
   私が北大薬学部4階の「薬品有機化学教室」にいた時、田元氏が隣の「衛生化学教室」の教務職員となりました。と言っても、あろうことか彼が南高の同期とはつゆ知らず。いつ分かったんだったか思い出せません。翌年私は徳島県の製薬会社に就職して徳島へと旅立ちます。9年後大きな発見をしたので、製品化のために古巣に出向となりましたが(83年)、その時田元氏は助手になっており、翌々年東日本学園の助教授として転出して行きました。私は87年に埼玉へ。
08年に定年退職して札幌に戻って来てみると、薬学部情報で彼は徳島の徳島文理大学薬学部教授となっていました。私の徳島時代の経験からすると、50代で徳島を初体験するのは辛いものがあったろうなと思われるのですが、詳細は割愛します。13年に徳島文理大学を定年退職した後は、青森大学(結構北大薬学部から人材が供出されています)に勤めていましたが、16年4月体調を崩したということで、慰留されつつ退職しています。体調を崩したと言っても、聞く限りでは重大でなく、卒後50年の定山渓パーティにも出席していたので本当にビックリしました。定山渓では「酔ってる?風呂に入る時は、気をつけろよ!」と声をかけたのに対して、ニヤッと笑い返して来ました。彼は若い時に、教室旅行か学会参加の時かハッキリしませんが、浴室と脱衣場の間のガラスドアに突進して大怪我をしているのです。奇しくも5月19日から21日にかけて徳島で行われた74年入社の同期会に参加し、戻ってみると19日、20日の彼の葬儀の案内メールが届いていました。合掌。ちなみに5月8日に亡くなった篠田君は、1年の北校舎で同級(14組)でした。それにしても14組で亡くなったのは彼で6人目です。合掌!
 

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